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TWILIGHT MADE …HIDEKI

TWILIGHT MADE …HIDEKI

1985年1月、西城秀樹は通算50枚目のシングル『一万光年の愛』発売記念イベントとして、デビュー以来のシングル50曲すべて歌唱する日本武道館公演を敢行。そして、これを機にシングル中心の歌謡曲路線から脱してアルバム・アーティスト路線へのアプローチを試みた。そこで白羽の矢が立ったのが、オリジナル・アルバムでは前作にあたる『GENTLE・A MAN』に楽曲提供(「THROUGH THE NIGHT」作詞・作曲・編曲)した角松敏生であった。当時、角松はブレイクし始めた時期で、杏里の大ヒット・シングル「悲しみがとまらない」などでの音楽プロデューサー業でも評価を得るようになっていた若手注目株[1]。デビューから西城と同じレコード会社所属で、同じ担当プロデューサー(元パープル・シャドウズの岡村右)というのが縁であり、またなによりも「THROUGH THE NIGHT」レコーディング時に西城が角松の音楽性に触れて共感したのが決め手となった[2]。 アルバム・コンセプトは西城自身のアイデアで、「クルマの中で黄昏時に掛かっていて、男性が隣(助手席)の彼女に言葉で言わなくても口説いていけるものを」というシチュエーションをプロデュース[3]。西城は角松同様に音楽性を買っていた吉田美奈子にも協力を仰ぐ[4]。かつての山下達郎よろしく[5]、洗練されたファンクやソウル・テイストの角松の作曲・編曲とそこに載る吉田の甘くともせつなく、それでいてシニカルな作詞で10曲中4曲を作る(角松と吉田のコラボレーションは本作が初となるが、角松はアマチュア時代から吉田を敬愛していたため、渡りに船でこれを引き受けた)。そして、それを核にして旧知の芳野藤丸、岡本朗、そして女優から作曲家に転身したMAYUMIこと堀川まゆみの作曲家陣が配された。 路線変更したかった西城はそれまでのパブリック・イメージを覆すため、アルバムのアートワークにおいて“西城秀樹”というパーソナリティーは出来るだけ隠した。ジャケットには初めて自身の写真を載せず、しかも似顔絵でもない印象派的なイラストで匿名性をおびたものが施された。さらにジャケット正面に載せるアーティスト・ネームは“HIDEKI”とだけ記した(LPレコードの帯には“西城秀樹”と記された)。それでも、パーソナリティーが反映されるシングルをもとにした音楽活動は引き続き行われていて、本作発売直近であった同年5月に通算51枚目となる「ミスティー・ブルー」を発売するも、その曲は本作には収録されずに、シングル曲未収録となるなど、やはり異例尽くめであった。本作発売時の声明で、「アルバム・アーティスト路線の手法に則り、これからはアルバムからシングルカットしていきたい」と言及していたとおり、発売から翌々月の同年9月に本作から「BEAT STREET」をシングルカットすることになった。シングル・エディションに曲が編集されたとはいえ、既発表曲をシングルにすることは、これもまた西城にとって初めての試みだった。 結局、本作はヒットするには至らなかったが、西城はこの路線をしばらく続ける。次のオリジナル・アルバム『FROM TOKYO』(1986年6月5日発売)では角松は離れたものの、吉田の作詞・作曲で8曲中3曲を、MAYUMI(堀川まゆみ)による作曲を2曲起用するなど連鎖させている。

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